北区大火(大阪回生病院沿革史より)

 明治42年(※1909年) 7月31日

 本院は内容の充実と共に病院業務もますます隆盛へ向かいつつあったが、なんという不幸であろうか、この日北区に大火災が起こった。区内の官公署・病院・学校・工場・商社・大小の民家等1万3千戸以上(※1)が一面の焦土となるや、本院もまたその災禍に遭い、たちまちの内に全部が灰燼に帰した(※2)。今ここにその全体を述べて、当時の大惨状を偲ぼうと思う。

 季節は真夏にして日照りが20日ほど続き、人はみな救いの雨を待っていた7月31日の明け方、打ち鳴らされる警鐘が、うつらうつらと夢を見ていた人々を叩き起こした。飛び起きて高い所へのぼれば、なんということであろう、区の北東の空を火災の煙が覆い、烈風が地を渦巻き、その炎は南西へ向かって勢い非常に猛烈であることが見て取れた。
 しかし火元は北の空心町で本院から1.2km以上離れており、且つその中間に堀川(※3)という天から与えられた防火帯があって、多数の消防隊が可能な限り延焼を防ぐことに全力を尽くしていると聞くと、少々安心した気待ちになった。当該方面に住む知人の元へ安否を尋ねる人を遣って、職員一同は平常通りに業務をこなしていたが、午前10時頃には黒煙が既に我が天心閣すれすれまで迫るに至った。また唯一の障壁として頼りにしていた堀川の防火帯も突破され、火はたちまち老松町(※4)に燃え広がり、火勢・風力はますます猛烈を極めた。

f:id:ryugamori:20200829235500j:plain

猛火の迫る控訴院 。左端が大阪回生病院。

 午後0時40分、本院の運命は今や危機に瀕していると判断し、全館に非常警戒の命令を伝えて、ただちに防火規定に基づき職員を三分割した。第一に患者の救護・第二に防火・第三に重要物件の搬出をする各部署を定めて、幾度も病室を巡回して患者を落ち着かせた。しかし避難予定地である大阪控訴院(※5)前庭は既に危険な位置にあったので、対岸の大阪ホテル(※6)こそが避難に最適な場所であると急ぎ使いを走らせ、臨時避難所に充てたい旨を懇願した。するとホテルの支配人・大塚卯三郎氏は大いにその行動をほめたたえ、すぐさま快諾してくれた。よってただちに同ホテルを避難所に充て、同時に本院の前に係留してあった大きな帆船を借りて患者の輸送用に提供した。

 ここにほぼ避難準備も整ったので、火勢と風向きに注意しつつ、万が一にも火災を逃れられる幸運を願ってその機会を待った。しかし午後2時頃には風が一層強くなり、猛火は奔流のようにますますその勢いを激しくして、ついに西天満小学校(※7)に延焼した。いわゆる火に薪をくべて油を注いだように延焼区域はあっという間に四方へ拡大し、防火の努力もほとんど無意味と言える悲痛な状況となったので、避難準備の万全であることを確認し、いよいよ最後の決断を下したのは午後3時であった(※8)。

 すぐに軽症患者は任意帰宅させ、重症患者は担架で船内輸送に着手したが、病院の前と東側の道路は猛火に追われた老若男女・荷馬車・人力車・消防夫等でふさがり、激しい混雑でわずかな余地もなかった。輸送困難を極めたその時、当時の第四師団長・土屋光春中将の好意で歩兵第三十七連隊の一部隊および衛戍病院担架隊が特別に派遣され、その援助によって患者の全てを無事に乗船させた。
 すぐさまとも綱(※9)を解いて堂島川の中程まで出たところ、向かい風が船を圧すので川を遡ることができず、そこに錨を下ろさざるを得ない事態となった。一時は患者に多少危惧の念を抱かせたが、約30分後、三井物産会社所有の小型蒸気船の援助を受けて、大阪ホテルの下に到着した。こうして直ちに患者を同ホテルの大広間および食堂室等に収容し、各自に応急処置を施した。この間に軽症患者の一部は徒歩または人力車で無事ホテルへ到着したので、ここに第一次の避難が完了した。

f:id:ryugamori:20200829235725j:plain

混乱極まる大江橋。中央に見えるのが大阪回生病院西病室と本館。

 午後4時30分、病院側では入院患者を無事に乗船避難させたと同時に、残りの人員は防火と物件搬出に全力注いだ。軍隊および篤志者の助けによって器械・器具類は表入口ならびに耳鼻咽喉科診察室の窓から川岸に向かって素早く搬出したが、畳・建具・蒸気機関および発電機等を搬出することができなかったのは残念であった。

 こうして器械・器具類の大部分は、巡航船の曳航で徐々に大阪ホテルへ輸送し荷揚げを完了したが、その時病院はまだ依然として類焼をまぬがれていた。しかし火の勢いは悪魔のごとく猛威を振るって短時間の内に老松町を焼き尽くし、午後5時には堂島一円が火の海と化した。残り火は旧梅田街道(※10)の市営電鉄線路(※11)を越えて、その左翼は絹笠町を襲い来た。全員必死の努力もついに功を奏せず、外科部(※西病室)は北西隅の裏長屋から燃え始めてたちまち炎に包囲され、続いて本館と西病室の間に存在する20余の家屋が一斉に炎に包まれると、火の切っ先は本館の北西を襲撃した。
 しかしレンガ造りの堅固な防火壁はこれによく抵抗し、西の窓は全て鉄扉を閉ざして非常用粘土で隙間を埋め、かつ建築当初から準備してあった蒸気ポンプの噴水が絶え間なく屋上に降り注ぎ、防御の成果は決して空しいものではなかった。北西の隣家は梁も柱も落ちて既に焼き尽くされていた時、本館は独り火の海の中に高くそびえ立ち、見ていた者に類焼を免れたかとさえ思わせたが、北東に位置する一大建築・大阪控訴院および地方裁判所もついに猛火の襲うところとなった。黒煙がもうもうと立ち込め、幾百幾千の炎王(※12)が同時に狂奔するかのごとき様相となった午後6時30分頃、本館北東の隅に黒煙が上がり、紅蓮の劫火(※13)が閃くのを見た。

 ここに至って人間の力ではどうすることもできない事を悟り、残っていた職員の一行は病院に最後の別れをして涙を呑んだ。ある者は巡航船に乗り、ある者は混乱の絶頂に達した人々の間を縫って、やっとのことで大阪ホテルに着いたのは午後7時頃であった。
 夕日がまさに西へ沈もうとする時、堂島川以北の天地は立ち込める黒煙に閉ざされ、本館三階建ての堂々たる建築はみるみる燃え上がる王宮と化し──その光景は一幅の絵画のようでもあった──ほんの僅かの内に、あまりにも痛ましい残骸を残すのみとなった。それを見ていた者はみな茫然自失し、思わず涙を流して静かに泣いたのであった。

 午後7時30分、今や対岸の北警察署(※14)・北区役所(※15)は共に猛火の中にあって、風向きはいっそう北に偏り、避難した大阪ホテルおよび銀水楼(※16)はその風下に位置していた。風に伴う飛び火は屋上を襲って、近くの公会堂(※17)に落下したとの急報が入った。危険な状況であることは言うまでもない。職員は小休止する暇もなく再び避難の計画を講じ、土屋師団長の好意で大阪偕行社(※18)を第二次避難所と決定した。重症者はすべて歩兵第八連隊の一ヶ中隊の力を借りて担架輸送とし、軽症患者は人力車輸送とし、容易にその輸送を完了した。
 こうして1階2階の各室を区分して医局・薬局・事務室を設け、薬品および食事は大阪衛戍病院(※19)に補給を請うて完全な治療を施し、患者ならびに職員がすっかり安堵したのは午後10時過ぎであった。その時西の方角を眺めると、西野田方面に炎が高く燃え上がり、空を焦がすのが見えた。

f:id:ryugamori:20200829235904j:plain

焼跡の大阪回生病院。本館・西病室ともに防火壁のみが残っている。

 一晩中看護および事務の整理に従事し、翌8月1日早朝、緒方病院(※20)・高安病院(※21)・赤十字社(※22)の各病院へ患者をさらに移し、一部は任意帰宅させた。外科患者の大部分はひとまず西宮回生病院(※23)へ移すべく、正午偕行社を出て網島駅から汽車で輸送し、午後3時に西宮へ無事到着した。
 一方、大阪ホテル前に陸揚げされた貨物は、巡航船で陸軍経理部倉庫に格納し、やっとのことで被災後の処理を完了することができた。

 第一次患者避難表 (病院→大阪ホテル)
内科  担送22名/車送12名/独歩4名/帰宅5名/死傷なし 合計43名
外科  担送29名/車送3名/独歩2名/帰宅8名/死傷なし 合計42名
小児科 担送11名/車送なし/独歩なし/帰宅5名/死傷者なし 合計16名
耳喉科 担送なし/車送1名/独歩1名/帰宅2名/死傷なし 合計4名
合計  担送62名/車送16名/独歩7名/帰宅20名/死傷者なし 総合計105名
 備考 小児科の担送は抱いたり背負ったりしたものが多い。

 第二次患者避難表 (大阪ホテル→大阪偕行社)
内科  担送20名/車送5名/独歩3名/帰宅10名/死傷なし 合計38名
外科  担送18名/車送6名/独歩2名/帰宅7名/死傷なし 合計33名
小児科 担送4名/車送1名/独歩なし/帰宅6名/死傷なし 合計11名
耳喉科 担送なし/車送1名/独歩1名/帰宅なし/死傷なし 合計2名
合計  担送42名/車送13名/独歩6名/帰宅23名/死傷なし 総合計84名

 この大火の際、軍隊・官憲・公私諸団体その他各方面より本院に寄せられた多大なる援助と同情に対し、深く感謝の意を表す。

 当時本院に在籍して奮闘努力した職員は以下の通りである。
   院長 菊池篤忠
   内科長 医学博士 菊池米太郎
   小児科長 医学博士 柳瀨實太郎
   耳鼻咽喉科長 医学博士 淺井健吉
   外科副科長 和田栄太郎
   (略)
     計 120名

 我ら120名の職員は、残忍な火の神・祝融(註24)によってたちまちの内に本拠地を奪われたが、一同ますます結束を固くし、困難を覚悟で病院再興の難事業に当たることとなったのである。


以上『大阪回生病院沿革史』より。
本文カッコ内※印は田んぼ註。

※1 『大阪市大火救護誌』に報告された焼失戸数は11,365戸 。
※2 大阪回生病院の損害額は建物97,000円・器具28,000円。
※3 大阪市北区にかつて存在した運河。慶長3年(1598年)開削。天満堀川とも呼ばれ、大阪回生病院の東600mほどの場所を流れていた。現在は埋め立てられている。
※4 現在の大阪市北区西天満3丁目~4丁目付近。
※5 回生病院から街路を隔てた東側、鍋島藩および津軽藩蔵屋敷跡である絹笠町・真砂町・若松町合併地(現西天満2丁目1番)に存在。初代赤レンガと呼ばれた大阪控訴院・大阪始審裁判所合同庁舎は明治22年に完成したが、明治29年出火により焼失。その跡地に明治33年完成したのが、大阪控訴院・大阪地方裁判所の2代目赤レンガである。
※6 かつて中之島公園内に存在した施設。現在の市立東洋陶磁美術館の場所にあたる。自由亭ホテルを前身とし、明治29年に西洋式の大阪ホテル(西店)として開業。内外の客人の集会および遊戯室としての貸し出し・旅客の宿泊・和洋割烹の提供を目的として運営されたが、大正13年出火により焼失。以降、当時の支店・今橋ホテルを大阪ホテルと称した。
※7 大阪市北区西天満3-12-21。大阪回生病院の北東約350m。
※8 府立大阪測候所の観測によると、午後3時ごろ秒速12mの風が吹いていた。  
※9 艫綱。船を岸に繋ぎ留めるために船尾にある綱。もやいづな。
※10 難波橋北詰を起点とし、尼崎の大物まで通じていた街道。大阪回生病院の南側道路を通り、西へ続いていた。かつては阪神間を結ぶ重要な幹線道路であった。大和田街道、阪神街道とも。
※11 明治42年当時は、当該箇所(梅田-大江橋)の市営電鉄工事はまだ完了していない。沿革史執筆の大正13年時点での表現と言うべきか。しかしこの一連の記述のおかげで、控訴院側と梅田新道側、東西から火に囲まれて行った絹笠町の延焼状況が判明した。
※12 中国神話の炎帝を指すと思われる。炎帝は夏を支配する神。または太陽の神とも。つまり数多の太陽が一斉に燃え盛るような状況を指すのだろう。
※13 仏教用語。現世の終わりに、この世界を焼き尽くす大火災。
※14 控訴院の街路を隔てて東に存在した。現在の天満警察署。
※15 明治26年(1893年)に樽屋町から老松町へ移転。北警察署の街路を隔てて東に存在した。
※16 かつて中之島公園内に存在した西洋料理料亭で、旅館も兼ねていた。建物は純日本式。現在の大阪市中央公会堂の北、堂島川沿いにあった。
※17 かつて中之島公園内に存在した初代市立公会堂。明治36年に開催された第五回内国勧業博覧会の関連施設として開設。現在の大阪市中央公会堂よりもやや西寄りにあった。大正2年天王寺へ移築され、天王寺公会堂として使用された。
※18 陸軍将校が公務の余暇に交流することを目的とした団体。現在の大阪市中央区大手前に建物が存在した。
※19 明治3年、現在の大阪市中央区大手前に日本初の陸軍病院・大阪軍事病院として開設。明治21年、大阪衛戍病院と改称。上町筋を隔てて東に大阪偕行社があった。
※20 緒方洪庵の次男・緒方惟準が明治20年に東区(現中央区)今橋に開設した私立病院。明治42年当時は立売堀に本館・新町に別館があった。
※21 高安道純が明治23年に西区土佐堀に開設した私立病院。明治39年に東区(現中央区)道修町へ移転。
※22 日本赤十字社大阪支部病院。明治21年に南区(現天王寺区)筆ケ崎町に設立。
※23 当時の外科長・菊池常三郎が明治40年武庫郡西宮町(現兵庫県西宮市)に開設した私立病院。
※24 中国神話において炎帝の子孫とされる火の神。転じて火災のことを言う。夏の神、南海の神とも。

 

参考資料
大阪讃歌
大阪市大火救護誌
洪庵・適塾の研究
明治大正大阪市