大阪ホテル年表

明治元年(1868年)9月25日◆長崎で西洋料理店・自由亭を経営していた草野丈吉が、大阪府知事後藤象二郎や外国官権判事・五代才助の招聘により大阪川口・梅本町(内外人雑居地)に設置する外国人止宿所の司長(支配人)を命じられる。

明治2年(1869年)1月◆外国人止宿所の正式な開業日は不明だが、新聞広告によると1月19日には既に営業し、自由亭を名乗っていたとみられる。

明治9年(1876年)7月◆明治5年に廃止された川口・富島町の外務局跡に、自由亭支店設置。

明治14年(1881年)1月8日◆梅本町から移転して、中之島に自由亭ホテル新築開業。官設から私設のホテルとなった。

明治17年(1884年)6月◆草野丈吉、ホテル東隣の浪花温泉とさらにその東にある清華楼を買収。

明治19年(1886年)4月12日◆草野丈吉、45歳で病死。星丘安信の協力を受けて長女・錦(きん)が跡を継ぐ。
12月1日◆清華楼を改築し、自由亭ホテル東に和風建築の洗心館開業。

明治20年(1887年)◆旧浪花温泉部分改築。

明治28年(1895年)1月8日◆洗心館を改築し、大阪ホテル東店と呼称。

明治29年(1896年)5月20日◆旧自由亭ホテルの場所に純洋風建築の大阪ホテルが竣工し、この日落成式挙行。大阪ホテル西店と呼称。

明治30年(1897年)3月◆国有浜地であったホテル敷地が大阪市に下げ渡されて市有となる。

明治31年3月◆星丘安信、49歳で死去。

明治32年(1899年)10月27日◆外山脩造ら11名の発起で資本金10万円の株式会社大阪倶楽部が設立される。※草野錦のすき焼き店(自由亭ホテル~大阪ホテル?)に出入りしていた銀行関係者らによって組織された「オオサカクラブ」が母体となっている模様。大正元年に設立された株式会社大阪倶楽部(現・一般社団法人大阪倶楽部)とは異なる。
10月31日◆草野錦が大阪ホテルを6万円で大阪倶楽部へ売却。以降、大阪ホテル西店は大阪倶楽部ホテル(大阪クラブホテル)となる。なお大阪倶楽部は東店を2万円で森田吉五郎に売却。東店は日本料理料亭旅館・森吉楼となる。

明治33年(1900年)◆ホテル敷地を市から貸借し、内外人の集会または遊戯室貸しを主とし、傍ら旅客の宿泊および和洋割烹を営業を目的とする事業が開始。社長・井上保次郎、支配人・大塚卯三郎。

明治34年(1901年)12月18日◆大阪倶楽部ホテル、改築中に失火で全焼。

明治35年(1902年)2月11日◆翌年大阪で開催される第五回内国勧業博覧会に伴う国内外の賓客を受け入れるため、再建を急ぐ。この日地鎮祭を執り行い、当初は年内の竣工を予定していた。
12月26日◆株式会社大阪倶楽部から株式会社大阪ホテルに変更登記。資本金10万円。

明治36年(1903年)1月3日◆建物竣工。北区中之島1丁目
1月4日◆大阪ホテルと改称し開業。
11月◆大阪市がホテル敷地を井上保次郎に3万6千余円(5回分納)の契約で売却。

明治37年(1904年)◆森吉楼を改築し、大阪銀行集会所とすることが決定。
8月◆森吉楼跡に大阪銀行集会所竣工。

明治38年(1905年)◆大島徳蔵が支配人となったのち3月~5月頃、建物西側にも新たに入口を設ける。

明治39年(1906年)?月◆大阪市がホテルの敷地・建物・什器を13万9千余円で買収、大阪ホテルの所有者となる。しかし間もなく一切の什器を2万5千円で大塚卯三郎に売却する。

明治40年(1907年)1月22日◆株式会社大阪ホテル解散。
?月◆大阪市、ホテル敷地を公園敷地に編入する。
?月◆大阪市、ホテル賃貸の入札を行う。大島徳蔵が1年あたり1千円の賃貸料で落札。大島はさらに競売をして、これを4万円(10年腑払い)で大塚卯三郎に売却する。

明治41年(1908年)10月◆ホテル経営とその家屋の所有者が異なると支障があったため、大阪市は建物の修繕ならびにホテル事業の改善を条件として、4万円(5回分納)で大塚卯三郎と売買契約を締結する。

明治42年(1909年)2月◆上記の登記手続き終了。大阪ホテルの所有権が大阪市の手を離れる。

明治43年(1910年)6月◆この頃大塚は同郷の尼野源二郎にホテル経営の整理を託すことを決意か。大日本麦酒株式会社社長・馬越恭平から大阪ホテルに対する債権保全のための建物競売訴訟を起こされてたという。

大正元年(1912年)12月7日◆尼野が伊藤耕之進・大島甚三らとともに資本金20万円の株式会社大阪ホテルを設立。のち大阪ホテルを買収。

大正8年(1919年)1月11日◆大阪ホテル附属建物調理場より出火し、大阪銀行集会所に延焼。調理場全焼するもホテルは大事に至らず。大阪銀行集会所は半焼。
3月8日◆合名会社名古屋ホテルの土地・建物・什器一切と営業権を11万5千円で買収。大阪ホテル名古屋支店とする。
6月◆大島社長の辞任を機に、資本金100万円へ増資。取締役の下郷伝平が会長に就任する。
12月◆下郷らにより、資本金200万円で株式会社浪速ホテルが設立される。

大正9年(1920年)3月◆大阪ホテルは浪速ホテルを合併し、公称資本金300万円となる。
7月1日◆元大阪逓信局の建物を改築した今橋ホテルが開業。大阪ホテル支店とする。建物は明治43年(1910)頃新築されたもの。東区今橋1丁目15番地の1

大正10年(1921年)4月1日◆名古屋支店が資本金50万円の株式会社名古屋ホテルとなる。以降、土地・建物・什器を大阪ホテルより貸借して経営する姉妹会社の形態をとる。

大正13年(1924年)11月13日◆中之島の大阪ホテル本店、ボイラー室より出火し焼失。再建の計画もあったが、市有地であったため土地を返納しなければならず、叶わなかった。以降本店を今橋ホテルへ移し、これを大阪ホテルと改称する。

昭和16年(1941年)3月7日◆前年の決算が好調でホテル経営も立ち直りはじめた矢先、折からのビル不足や建物統制等の都合で、本店建物一切を大和紡績株式会社へ譲渡することとなる。この日を限りに営業を終了し、ホテル部は廃業となった。
6月26日◆有限会社大阪ホテル設立。大阪ホテルの名前を残したまま、食堂経営専門となる。
9月19日◆名古屋ホテルは土地建物設備一切を大阪ホテルより貸借して営業していたが、大阪ホテルが有限会社となったことを機にこれらを優先的に譲り受けることとなる。この日事業設備新設許可申請が許可され、事実上完全に独立した会社となった。

昭和17年10月25日◆大阪ホテル・名古屋ホテルの沿革史である『ホテルの想ひ出』発行。

 

参考文献

秦重吉 『大大阪営業名鑑』 大大阪営業名鑑発行社 1925年
堀田暁生 「自由亭ホテルと大阪ホテル」 『大阪春秋』 第51号 1987年11月
堀田暁生 「写真が語る自由亭ホテルと大阪ホテル」 『大阪春秋』 第83号 1996年6月
堀田暁生 「中之島の自由亭ホテルと草野丈吉について」 『大阪の歴史』 第71号 2008年8月
木村吾郎「大阪のホテル今昔 -自由亭ホテルから新大阪ホテルまで-」 『大阪春秋』 第83号 1996年6月
木村吾郎 『日本のホテル産業100年史』 明石書店 2006年
大阪市 『明治大正大阪市史(復刻版)』 清文堂書店 1980年
下郷市造 『ホテルの想ひ出』 大阪ホテル事務所 1942年
砂本文彦 「大阪と名古屋の都市ホテルについて」 『社史で見る日本経済史 第92巻 ホテルの思ひ出』 2017年6月
逓信省逓信事業史』 第7巻 1940年
「表紙に掲げられたる大阪ホテルに就いて」 『工業之大日本』 第2巻第6号 1905年
「大阪ホテルの拡張」 『仁寿社報』 第92号 1920年
大阪倶楽部ホテルの上棟式」 『三十六年』 第4号 1902年
「地方通信」 『逓信協会雑誌』 第23号 1910年

大阪回生病院 3代目本館(1915年竣工)

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大阪回生病院 (国立国会図書館デジタルコレクションより)

所在地 大阪市北区絹笠町2番地
起工 大正3年(1914年)12月27日
竣工 大正4年(1915年)7月24日(開院式)
設計 宗兵蔵(工学士)/建築請負・瀧惣七
構造 木造地上3階/地下1階
病室数 29室(収容人数29名)
建築面積 318坪3合2勺(約1052.30㎡)

 外壁は鉄筋コンクリート造りにセメント・モルタル塗り。本館中央には鉄筋コンクリートの防火壁(鉄製シャッターを備える)、西側民家に接する部分には亜鉛版製防火壁がある。その他耐震の方法にも注意を払った。
 電灯は大阪電燈会社から供給を受け、不意の備えとして、ところどころにガス灯を設ける。

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本館配置略図 1階 (国立国会図書館デジタルコレクションより)

◆1階◆
 病院の正面つまり東街路に面した入口は中央より少々南に位置する。車寄せは切妻造りで花崗岩および人造石で作り、正面および左右の3方向から玄関に入る。その両側に下足預り所を設ける。
 玄関を上ると待合室で、ここに受付がある。待合室の広さは南北に7間半(※約13.64m)東西に3間半(※約6.36m)の48畳敷きで、天井中央の長さ6間(※約10.91m)幅1間(※約1.82m)の部分は採光のために二重ガラス張りとし、化粧柱は内部に竪樋(たてどい)を納める。
 玄関を入って正面に事務室、その南に薬局、北に応接室がある。北側は携帯品預り所で、その西に廊下を隔てて外来便所がある。南側はガラス入りの壁で、その両側から外科・耳鼻咽喉科・待合室に至る。その広さは南北に3間(※約5.45m)東西に3間半の21畳敷きで、天井中央を1間四方のガラス張りとする。
 玄関の左に第1包帯交換室・外科診察室・密診室がある。密診室の西に第2包帯交換室・耳鼻咽喉科予診室・耳鼻咽喉科診察室および副室がある。その北は暗室で、前は廊下となっていてその北側に薬局入口がある。
 玄関の右に応接室・電話交換室・電話室がある。ここから携帯品預り所の両側にある通路を経て大広間(大待合室)に入る。広さは南北に12間(※約21.82m)東西に3間半強の約85畳敷きで、天井中央に長さ7間2尺(※約13.33m)幅1間のガラス張り部分がある。その他化粧柱の構造等はすべて玄関待合室と同じである。この大広間の東側にある各室を南から列挙すれば、レントゲン室・応接室・内科第2診察室・予診室・待合室・第1診察室・病理試験室で、西側は南から小児科待合室・第1診察室・処置室・第2診察室・婦人科内診室・診察室・待合室がある。大広間の南側は壁、北側はガラス入りの壁でその北に廊下がある。裏通りに面した北側には病理試験室の西に医局・図書室・科長室・科長脱衣室がある。
 階段は玄関脇応接室の北および薬局の南に表階段がある。その幅はそれぞれ4尺(※約1.21m)で表2階(※2階南側)に通じ、裏階段は図書室の前にあり、幅5尺(※約1.52m)で裏2階(※2階北側)に通じる。中央階段は大広間の南端にあり、幅5尺で2階の中央に通じる所とする。
 地下室に通じる階段は薬局入口の東と中央階段および裏階段の下にあり、その幅はそれぞれ3尺(※約0.91m)とする。
 非常口は耳鼻咽喉科予診室の南側・レントゲン室北応接室の東側・医局の北側ならびに科長脱衣室の西にある。いずれも戸を開けると街路へ出ることができる。


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本館地下室配置略図 (国立国会図書館デジタルコレクションより)

◆地下室◆
 地下室は南・中央および北の3ヶ所にある。南地下室は製剤室・理化学試験室・薬品倉庫・物置所・脱衣室等に区分し、中央地下室は東側を事務室倉庫・レントゲン地下室・男子食堂・女子食堂、西側を事務倉庫・機関室・炭倉庫・事務倉庫・ボイラー作業員寝室等とし、機関室・ボイラー作業員寝室の壁および天井はレンガで築き、セメントで上塗りし防火設備をなしている。北地下室には病理付属室・4個の浴室・霊安室・洗濯所等がある。
 廊下の西端から屋外地上に通じる石の階段がある。これを上れば西に便所および非常用階段、北に裏門があり街路に出る。


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本館配置略図 2階 (国立国会図書館デジタルコレクションより)

◆2階◆
 建坪は1階と同じである。ここには29個の病室と来賓室・看護婦室・看護婦勤務室・医局員宿直室・浴室・食器洗い場・洗面所・便所・倉庫等がある。
 そして表通りに面した南側に4個の一等病室と来賓室がある。病室は6畳と3畳の副室で構成され、床の間・押入れを設ける。来賓室は東南隅の景色のよい位置を占め、約25畳と4畳の副室を有する。
 東街路沿いには廊下の東側に7個の病室と看護婦勤務室・看護婦室・医局員宿直室がある。病室のうち2室は8畳と4畳、5室は6畳と3畳で、前者を特等室、後者を一等室とし、みな床の間・押入れを設ける。
 また裏通りに面した北側に5個の病室と浴室・食器洗い場・洗面所・倉庫がある。病室のうち4室は一等室、残りの1室は二等室で6畳に床の間・押入れを設ける。
 さらに廊下の西側に13個の病室と便所がある。病室は6畳敷きで床の間・押入れ付きの部屋と、押入れのみの部屋とがあって、みな二等室とする。便所の位置は1階と同じである。
 2階には1階に通じる階段のほかに、3階の看護婦寄宿舎に至る2個の階段がある。ひとつは特等室の南、ひとつは特等室の北にあり、前者は幅3尺(※約0.91m)、後者は幅4尺(※約1.21m)とする。
 そのほか東側北端の一等室の北に幅2尺5寸(※約0.76m)の階段があり、物干し場に通じる。
 また北廊下の西端食器洗い場の横に非常口があり、戸を開けて北に物干し場へ上る幅2尺2寸(※約0.67m)の階段と、南に幅3尺2寸(※約0.97m)の非常用階段があり、地上へ下りることができる。


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3階 (国会図書館デジタルコレクションより)

◆3階◆
 建坪47坪2合5勺(※約156.20㎡)の屋根裏で、ここに5個の看護婦寄宿舎と倉庫がある。


◇◇◇◇◇◇◇◇

 余談ではあるが、3代目本館の開院式が行われた大正4年7月24日と、病院の創立記念日にあたる翌25日の様子について、沿革史におよそ次のような記述がある。

  「7月24日 以前から絹笠町2番地に再築中の本館が竣成し、開院式を挙行する。招待した来賓が午後1時より続々と来観し、最終の午後5時までにその数は270名に達した。この日は燃えるような暑さが特に厳しかったので、院内には多数の模擬店・冷布・氷柱・扇風機等を備え付けて、来賓のもてなしに努めた。」

  「7月25日 新築本館において、創立15年記念式を挙行し、院長(※菊池常三郎)が丁寧で心のこもった式辞を述べた。次に本院顧問に招聘した井上正進氏を紹介し、同氏の挨拶があった。閉式後、大広間において祝宴を開催し、淺井耳鼻咽喉科長が総代として祝辞を述べ、回生病院ならびに菊池家の万歳を三唱した。院内においてこのように多数の職員・看護婦が一堂に会して盛大な宴会を催したのは、思うに初めてのことだ。」

 折しもこの二日間は回生病院からほど近い大阪天満宮の夏祭り、天神祭の宵宮と本宮である。病院の中も外もお祭りの気分に満ちていたことだろう。楽しく賑やかな空気が伝わってくるようだ。

◇◇◇◇◇◇◇◇

以上『大阪回生病院沿革史』より。
本文カッコ内※印はryugamori註。

大阪回生病院 2代目本館(1910年竣工)

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北区大火後再建の本院 (国立国会図書館デジタルコレクションより)

 

所在地 大阪市北区絹笠町2番地
起工 明治43年(1910年)4月4日
竣工 明治43年(1910年)12月15日
再落成式 明治43年(1910年)12月18日
設計 日高胖(工学士)/建築請負・長瀨兵馬
構造 木造地上3階/地下1階
病室数 52室
建築面積 292坪6合強(約967.27㎡強)

 外部はセメント入り漆喰塗り。西および北側にはレンガ壁を築き、窓には防火鉄扉を備える。灯火は地下室に吸入ガス発動機(エンジン)および発電機を備え付け、自家用電灯とする。(註)

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本館配置略図 (国立国会図書館デジタルコレクションより)

 
◆1階◆
 病院の入り口は東南の隅にあり、石の階段をのぼって玄関に入る。ここに廊下を隔てて正面に受付がある。その内側を患者待合室とする。約40畳の大広間で、天井は12畳ほどのガラス張りとなっている。
 廊下は玄関をのぼって右に曲がり、右手に小便室・外科副室・外科診察室・包帯交換室・耳鼻咽喉科診察室・耳鼻咽喉科副室・応接室・院長室・4個の科長室・看護婦総取締室・教室・会議室がある。左手に調剤員当直室・薬局・事務室・事務副室がある。
 廊下の北側に便所、その右手階段の北側に内科副室・内科診察室がある。その東を内科治療室・電話室とし、その北を応接室・小児科診察室とする。そして小児科診察室の西を小児科副室、そのとなりの部屋を手術室とし、北側に準備室・便所・洗面所がある。小児科診察室・小児科副室の前に廊下があって、これを隔てて小児科患者待合室に面する。この北に病理試験室および食堂がある。
 中央廊下は1階最長の通路で約28間(※約50.9m)に達し、北端に医員室、その西に大小2個の看護婦室、南側に布団場・洗面所および便所がある。浴室は3個で病理試験室の西にあり、廊下によって中央廊下と行き来する。
 階段は玄関を上って小便室の北および事務室の北に表階段がある。その幅はどれも6尺(※約1.82m)で表2階および3階に通じ、裏階段は看護婦室の前、布団場の東にある。その幅は6尺で裏2階および3階に通じる。中央階段は耳鼻咽喉科副室の北にある。幅6尺で2階および3階の中央に通じるところとする。地下室に通じる階段は、中央階段の下と西北隅便所の南とにあって、その幅はそれぞれ4尺(※約1.21m)とする。
 非常口は中央階段の北(※東の誤りと思われる)と会議室の北東隅にあり、ともに戸を開けば街路へ出ることができる。なお看護婦室の前廊下の西端にも1ヶ所ある。

◆地下室◆
 地下室は南・中央・北の3ヶ所にある。南地下室は製薬室・理化学的実験室・倉庫等に区分し、中央地下室は機関室・石炭庫・ボイラー作業員寝室・雑使婦室・看護婦食堂等で構成され、機関室・石炭庫・火夫寝室のしきりおよび天井はレンガで築き、セメントで上塗りして防火設備をなした。北地下室は木炭庫・消毒室・倉庫等とする

◆2階◆
 建坪および廊下の経路は1階と同じである。ここには26個の病室と看護婦取締室・看護婦室・看護婦勤務室がある。
 そして表通りに面した南側に4個の病室がある。その内3室は7畳と3畳の二間、1室は八角形をした約8畳の間と3畳の副室から構成され、東端を除いた病室は床の間・押入れを設ける。この4室はみな特等室である。その北側に特等室および一等室(6畳と3畳)が各1個ある。東街路に沿ったところには、廊下側に12個の病室がある。その内4室は6畳と3畳、7室は4畳半ないし6畳、北東隅の1室は八角形で約7畳と3畳で構成され、北端の2室を除いて床の間と押入れを設ける。そして副室付きの病室を一等室とし、他を二等室とする。
 また廊下の西側に3個の二等室と看護婦取締室・看護婦室・看護婦勤務室・物置所、および看護婦取締室の北に1個の一等室がある。
 さらに裏通りに面した北側に4個の病室がある。6畳敷きでみな二等室とする。そして便所の位置は1階と同じである。

◆3階◆
 病室その他の配置は2階と全く同じである。


以上『大阪回生病院沿革史』より。
なお、本文カッコ内※印はryugamori註。


註 日本では1907年に発動機製造株式会社(現・ダイハツ工業)が初の国産エンジン「6馬力 吸入ガス発動機」を完成させ、その後次々と馬力の高い製品を発表した。もしかしたらその内のどれかかも知れない。

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北区大火(大阪回生病院沿革史より)

 明治42年(※1909年) 7月31日

 本院は内容の充実と共に病院業務もますます隆盛へ向かいつつあったが、なんという不幸であろうか、この日北区に大火災が起こった。区内の官公署・病院・学校・工場・商社・大小の民家等1万3千戸以上(※1)が一面の焦土となるや、本院もまたその災禍に遭い、たちまちの内に全部が灰燼に帰した(※2)。今ここにその全体を述べて、当時の大惨状を偲ぼうと思う。

 季節は真夏にして日照りが20日ほど続き、人はみな救いの雨を待っていた7月31日の明け方、打ち鳴らされる警鐘が、うつらうつらと夢を見ていた人々を叩き起こした。飛び起きて高い所へのぼれば、なんということであろう、区の北東の空を火災の煙が覆い、烈風が地を渦巻き、その炎は南西へ向かって勢い非常に猛烈であることが見て取れた。
 しかし火元は北の空心町で本院から1.2km以上離れており、且つその中間に堀川(※3)という天から与えられた防火帯があって、多数の消防隊が可能な限り延焼を防ぐことに全力を尽くしていると聞くと、少々安心した気待ちになった。当該方面に住む知人の元へ安否を尋ねる人を遣って、職員一同は平常通りに業務をこなしていたが、午前10時頃には黒煙が既に我が天心閣すれすれまで迫るに至った。また唯一の障壁として頼りにしていた堀川の防火帯も突破され、火はたちまち老松町(※4)に燃え広がり、火勢・風力はますます猛烈を極めた。

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猛火の迫る控訴院 。左端が大阪回生病院。

 午後0時40分、本院の運命は今や危機に瀕していると判断し、全館に非常警戒の命令を伝えて、ただちに防火規定に基づき職員を三分割した。第一に患者の救護・第二に防火・第三に重要物件の搬出をする各部署を定めて、幾度も病室を巡回して患者を落ち着かせた。しかし避難予定地である大阪控訴院(※5)前庭は既に危険な位置にあったので、対岸の大阪ホテル(※6)こそが避難に最適な場所であると急ぎ使いを走らせ、臨時避難所に充てたい旨を懇願した。するとホテルの支配人・大塚卯三郎氏は大いにその行動をほめたたえ、すぐさま快諾してくれた。よってただちに同ホテルを避難所に充て、同時に本院の前に係留してあった大きな帆船を借りて患者の輸送用に提供した。

 ここにほぼ避難準備も整ったので、火勢と風向きに注意しつつ、万が一にも火災を逃れられる幸運を願ってその機会を待った。しかし午後2時頃には風が一層強くなり、猛火は奔流のようにますますその勢いを激しくして、ついに西天満小学校(※7)に延焼した。いわゆる火に薪をくべて油を注いだように延焼区域はあっという間に四方へ拡大し、防火の努力もほとんど無意味と言える悲痛な状況となったので、避難準備の万全であることを確認し、いよいよ最後の決断を下したのは午後3時であった(※8)。

 すぐに軽症患者は任意帰宅させ、重症患者は担架で船内輸送に着手したが、病院の前と東側の道路は猛火に追われた老若男女・荷馬車・人力車・消防夫等でふさがり、激しい混雑でわずかな余地もなかった。輸送困難を極めたその時、当時の第四師団長・土屋光春中将の好意で歩兵第三十七連隊の一部隊および衛戍病院担架隊が特別に派遣され、その援助によって患者の全てを無事に乗船させた。
 すぐさまとも綱(※9)を解いて堂島川の中程まで出たところ、向かい風が船を圧すので川を遡ることができず、そこに錨を下ろさざるを得ない事態となった。一時は患者に多少危惧の念を抱かせたが、約30分後、三井物産会社所有の小型蒸気船の援助を受けて、大阪ホテルの下に到着した。こうして直ちに患者を同ホテルの大広間および食堂室等に収容し、各自に応急処置を施した。この間に軽症患者の一部は徒歩または人力車で無事ホテルへ到着したので、ここに第一次の避難が完了した。

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混乱極まる大江橋。中央に見えるのが大阪回生病院西病室と本館。

 午後4時30分、病院側では入院患者を無事に乗船避難させたと同時に、残りの人員は防火と物件搬出に全力注いだ。軍隊および篤志者の助けによって器械・器具類は表入口ならびに耳鼻咽喉科診察室の窓から川岸に向かって素早く搬出したが、畳・建具・蒸気機関および発電機等を搬出することができなかったのは残念であった。

 こうして器械・器具類の大部分は、巡航船の曳航で徐々に大阪ホテルへ輸送し荷揚げを完了したが、その時病院はまだ依然として類焼をまぬがれていた。しかし火の勢いは悪魔のごとく猛威を振るって短時間の内に老松町を焼き尽くし、午後5時には堂島一円が火の海と化した。残り火は旧梅田街道(※10)の市営電鉄線路(※11)を越えて、その左翼は絹笠町を襲い来た。全員必死の努力もついに功を奏せず、外科部(※西病室)は北西隅の裏長屋から燃え始めてたちまち炎に包囲され、続いて本館と西病室の間に存在する20余の家屋が一斉に炎に包まれると、火の切っ先は本館の北西を襲撃した。
 しかしレンガ造りの堅固な防火壁はこれによく抵抗し、西の窓は全て鉄扉を閉ざして非常用粘土で隙間を埋め、かつ建築当初から準備してあった蒸気ポンプの噴水が絶え間なく屋上に降り注ぎ、防御の成果は決して空しいものではなかった。北西の隣家は梁も柱も落ちて既に焼き尽くされていた時、本館は独り火の海の中に高くそびえ立ち、見ていた者に類焼を免れたかとさえ思わせたが、北東に位置する一大建築・大阪控訴院および地方裁判所もついに猛火の襲うところとなった。黒煙がもうもうと立ち込め、幾百幾千の炎王(※12)が同時に狂奔するかのごとき様相となった午後6時30分頃、本館北東の隅に黒煙が上がり、紅蓮の劫火(※13)が閃くのを見た。

 ここに至って人間の力ではどうすることもできない事を悟り、残っていた職員の一行は病院に最後の別れをして涙を呑んだ。ある者は巡航船に乗り、ある者は混乱の絶頂に達した人々の間を縫って、やっとのことで大阪ホテルに着いたのは午後7時頃であった。
 夕日がまさに西へ沈もうとする時、堂島川以北の天地は立ち込める黒煙に閉ざされ、本館三階建ての堂々たる建築はみるみる燃え上がる王宮と化し──その光景は一幅の絵画のようでもあった──ほんの僅かの内に、あまりにも痛ましい残骸を残すのみとなった。それを見ていた者はみな茫然自失し、思わず涙を流して静かに泣いたのであった。

 午後7時30分、今や対岸の北警察署(※14)・北区役所(※15)は共に猛火の中にあって、風向きはいっそう北に偏り、避難した大阪ホテルおよび銀水楼(※16)はその風下に位置していた。風に伴う飛び火は屋上を襲って、近くの公会堂(※17)に落下したとの急報が入った。危険な状況であることは言うまでもない。職員は小休止する暇もなく再び避難の計画を講じ、土屋師団長の好意で大阪偕行社(※18)を第二次避難所と決定した。重症者はすべて歩兵第八連隊の一ヶ中隊の力を借りて担架輸送とし、軽症患者は人力車輸送とし、容易にその輸送を完了した。
 こうして1階2階の各室を区分して医局・薬局・事務室を設け、薬品および食事は大阪衛戍病院(※19)に補給を請うて完全な治療を施し、患者ならびに職員がすっかり安堵したのは午後10時過ぎであった。その時西の方角を眺めると、西野田方面に炎が高く燃え上がり、空を焦がすのが見えた。

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焼跡の大阪回生病院。本館・西病室ともに防火壁のみが残っている。

 一晩中看護および事務の整理に従事し、翌8月1日早朝、緒方病院(※20)・高安病院(※21)・赤十字社(※22)の各病院へ患者をさらに移し、一部は任意帰宅させた。外科患者の大部分はひとまず西宮回生病院(※23)へ移すべく、正午偕行社を出て網島駅から汽車で輸送し、午後3時に西宮へ無事到着した。
 一方、大阪ホテル前に陸揚げされた貨物は、巡航船で陸軍経理部倉庫に格納し、やっとのことで被災後の処理を完了することができた。

 第一次患者避難表 (病院→大阪ホテル)
内科  担送22名/車送12名/独歩4名/帰宅5名/死傷なし 合計43名
外科  担送29名/車送3名/独歩2名/帰宅8名/死傷なし 合計42名
小児科 担送11名/車送なし/独歩なし/帰宅5名/死傷者なし 合計16名
耳喉科 担送なし/車送1名/独歩1名/帰宅2名/死傷なし 合計4名
合計  担送62名/車送16名/独歩7名/帰宅20名/死傷者なし 総合計105名
 備考 小児科の担送は抱いたり背負ったりしたものが多い。

 第二次患者避難表 (大阪ホテル→大阪偕行社)
内科  担送20名/車送5名/独歩3名/帰宅10名/死傷なし 合計38名
外科  担送18名/車送6名/独歩2名/帰宅7名/死傷なし 合計33名
小児科 担送4名/車送1名/独歩なし/帰宅6名/死傷なし 合計11名
耳喉科 担送なし/車送1名/独歩1名/帰宅なし/死傷なし 合計2名
合計  担送42名/車送13名/独歩6名/帰宅23名/死傷なし 総合計84名

 この大火の際、軍隊・官憲・公私諸団体その他各方面より本院に寄せられた多大なる援助と同情に対し、深く感謝の意を表す。

 当時本院に在籍して奮闘努力した職員は以下の通りである。
   院長 菊池篤忠
   内科長 医学博士 菊池米太郎
   小児科長 医学博士 柳瀨實太郎
   耳鼻咽喉科長 医学博士 淺井健吉
   外科副科長 和田栄太郎
   (略)
     計 120名

 我ら120名の職員は、残忍な火の神・祝融(註24)によってたちまちの内に本拠地を奪われたが、一同ますます結束を固くし、困難を覚悟で病院再興の難事業に当たることとなったのである。


以上『大阪回生病院沿革史』より。
本文カッコ内※印は田んぼ註。

※1 『大阪市大火救護誌』に報告された焼失戸数は11,365戸 。
※2 大阪回生病院の損害額は建物97,000円・器具28,000円。
※3 大阪市北区にかつて存在した運河。慶長3年(1598年)開削。天満堀川とも呼ばれ、大阪回生病院の東600mほどの場所を流れていた。現在は埋め立てられている。
※4 現在の大阪市北区西天満3丁目~4丁目付近。
※5 回生病院から街路を隔てた東側、鍋島藩および津軽藩蔵屋敷跡である絹笠町・真砂町・若松町合併地(現西天満2丁目1番)に存在。初代赤レンガと呼ばれた大阪控訴院・大阪始審裁判所合同庁舎は明治22年に完成したが、明治29年出火により焼失。その跡地に明治33年完成したのが、大阪控訴院・大阪地方裁判所の2代目赤レンガである。
※6 かつて中之島公園内に存在した施設。現在の市立東洋陶磁美術館の場所にあたる。自由亭ホテルを前身とし、明治29年に西洋式の大阪ホテル(西店)として開業。内外の客人の集会および遊戯室としての貸し出し・旅客の宿泊・和洋割烹の提供を目的として運営されたが、大正13年出火により焼失。以降、当時の支店・今橋ホテルを大阪ホテルと称した。
※7 大阪市北区西天満3-12-21。大阪回生病院の北東約350m。
※8 府立大阪測候所の観測によると、午後3時ごろ秒速12mの風が吹いていた。  
※9 艫綱。船を岸に繋ぎ留めるために船尾にある綱。もやいづな。
※10 難波橋北詰を起点とし、尼崎の大物まで通じていた街道。大阪回生病院の南側道路を通り、西へ続いていた。かつては阪神間を結ぶ重要な幹線道路であった。大和田街道、阪神街道とも。
※11 明治42年当時は、当該箇所(梅田-大江橋)の市営電鉄工事はまだ完了していない。沿革史執筆の大正13年時点での表現と言うべきか。しかしこの一連の記述のおかげで、控訴院側と梅田新道側、東西から火に囲まれて行った絹笠町の延焼状況が判明した。
※12 中国神話の炎帝を指すと思われる。炎帝は夏を支配する神。または太陽の神とも。つまり数多の太陽が一斉に燃え盛るような状況を指すのだろう。
※13 仏教用語。現世の終わりに、この世界を焼き尽くす大火災。
※14 控訴院の街路を隔てて東に存在した。現在の天満警察署。
※15 明治26年(1893年)に樽屋町から老松町へ移転。北警察署の街路を隔てて東に存在した。
※16 かつて中之島公園内に存在した西洋料理料亭で、旅館も兼ねていた。建物は純日本式。現在の大阪市中央公会堂の北、堂島川沿いにあった。
※17 かつて中之島公園内に存在した初代市立公会堂。明治36年に開催された第五回内国勧業博覧会の関連施設として開設。現在の大阪市中央公会堂よりもやや西寄りにあった。大正2年天王寺へ移築され、天王寺公会堂として使用された。
※18 陸軍将校が公務の余暇に交流することを目的とした団体。現在の大阪市中央区大手前に建物が存在した。
※19 明治3年、現在の大阪市中央区大手前に日本初の陸軍病院・大阪軍事病院として開設。明治21年、大阪衛戍病院と改称。上町筋を隔てて東に大阪偕行社があった。
※20 緒方洪庵の次男・緒方惟準が明治20年に東区(現中央区)今橋に開設した私立病院。明治42年当時は立売堀に本館・新町に別館があった。
※21 高安道純が明治23年に西区土佐堀に開設した私立病院。明治39年に東区(現中央区)道修町へ移転。
※22 日本赤十字社大阪支部病院。明治21年に南区(現天王寺区)筆ケ崎町に設立。
※23 当時の外科長・菊池常三郎が明治40年武庫郡西宮町(現兵庫県西宮市)に開設した私立病院。
※24 中国神話において炎帝の子孫とされる火の神。転じて火災のことを言う。夏の神、南海の神とも。

 

参考資料
大阪讃歌
大阪市大火救護誌
洪庵・適塾の研究
明治大正大阪市

大阪回生病院 初代本館 (1900年竣工)

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創立当時の大阪回生病院 (国立国会図書館デジタルコレクションより)

  本院は堂島川の北岸にあり、川の流れを隔てて中之島公園と向かい合っており、水陸の交通至便である。大阪控訴院は東の街路をはさんでそびえ立ち、日本銀行大阪支店・大阪図書館および豊公銅像・豊国神社・公会堂等はきわめて近くにある。

所在地 大阪市北区絹笠町2番地
起工 明治32年(1899年)6月
竣工 明治33年(1900年)7月
開院 明治33年(1900年)7月25日
設計 芳賀靜雄(第四師団建築技師)/建築監督・小川良知(一等薬剤官)
構造 木造地上3階/地下1階/塔屋つき
病室数 82室(収容可能人数100人超)
敷地面積 415坪6合5勺(約1374.05㎡)
建築面積 220坪8合7勺(約730.15㎡)

 西および北側の民家に接する部分には、レンガ壁を築き、窓には鉄扉を設けて防火に備えた。耐震の方法にも注意を払った。

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本館配置略図 (国立国会図書館デジタルコレクションより)


◆1階◆
 病院の正面つまり堂島川に面した入口は花崗岩で築き、石の階段をのぼって玄関に入る。廊下を隔てて正面に事務室、その左に事務員当直室がある。玄関のすぐ左に薬局、右に患者待合室がある。薬局のとなりの部屋を調剤員当直室とし、待合室のとなりの部屋を外来患者包帯交換室とする。
 玄関をのぼって右に曲がり、待合室および外来患者包帯交換室の前でさらに左に曲がると廊下がある。右側に外科、内科、小児科診察室、医局および7室の病室がある。左側に電話室(この角を曲がって事務室の裏を進むと職員および外来便所。曲がってすぐの階段を下りると地下室へ至る)、内科治療室、応接室、急診患者待合室、湯沸所、看護婦取締室、看護婦室、物置所および4室の病室がある。
 病室は各室とも畳8畳敷きで(最北端の1室のみリノリウム敷きで寝台を備える)、押入れ・床の間を設ける。暖房および電鈴を備え、窓は2ヶ所・入口は1ヶ所である。
 廊下の長さは、外来患者包帯交換室の前から病室の尽きるところまで33間(※約60m)ある。この廊下は1階における最長の通路で、ところどころに痰壺および投書箱を備える。
 手術室は看護婦室および物置所の裏にある。大小4つの部屋で構成され、漆喰叩きの通路で看護婦室と物置所との間から廊下へ通じる。この通路の傍ら(※看護婦室の北側)には昇降機を備え、2階3階の患者を手術室に昇り降りさせる場所とする。
 病室の尽きるところで更に廊下を左に曲がれば、右に便所・浴室・洗濯所(蒸気洗濯機を備える)がある。左に乾燥室があって、包帯材料を乾燥させる場所とする。さらにそのとなりに台所および同係員室がある。この台所に接するところにも昇降機があって、食膳を2階3階へ運ぶのに用いる。
 病理試験室・磨工室・院長室・医員当直室等は、手術室の南にある二階建てで、廊下で湯沸所に接続する。
 階段は玄関をのぼって右ななめ前に表階段があり、幅9尺(※約2.7m)で表2階および3階に通じる。裏階段は最北端病室の前と台所の前とにあり、幅約3尺(※約0.9m)で、裏2階および3階に通じる場所とする。地下室に通じる階段は、薬局のとなりと電話室の前と台所のかたわらの3ヶ所にあって、幅はそれぞれ3尺ほどとする。
 非常口は最北端病室の前と台所の裏とにあって、これを開けば裏通りの街路に出ることができる。

※なお、明治42(1909)年2月西病室完成後は、外科は全て西病室へ移転し、本館の診察室を以下の通り変更した。
 小児科診察室→内科診察室
 外科診察室→小児科診察室
 包帯交換室→耳鼻咽喉科診察室

◆地下室◆
 地下室は表(※南)および裏(※北)の2ヶ所にある。表地下室は、製薬室・理化学的試験室等に区分し、かつ氷室の設置がある。
 裏地下室は蒸気機関室・電機室・熱気消毒室・石炭庫・ボイラー作業員寝室等で構成される。
 各室のしきり・天井等はレンガ造りにセメントを上塗りし、光は適宜窓を設けて引き入れた。

◆2階◆
 2階の建坪は1階と同じである。しかし部屋の広さならびに区分等は同じではない。(廊下の経路は同じ)
 表通りつまり堂島川に面した南側に、5個の病室がある。その各室は8畳と6畳の二間、または10畳と7畳の二間等で構成される。これに床の間・違い棚・押入れ等を設け、暖房および電鈴を備える。またその北側に2個の病室がある。8畳と6畳の二間で構成される。そして10畳と7畳の二間の部屋を特等室とし、他はみな一等室とする。
 横通りつまり大阪控訴院へ向かい合った方は、廊下の右側(東側)に13個、左側(西側)に6個の病室と看護婦取締室・看護婦室がある。各病室は畳8畳敷きで、最北端の病室はリノリウム敷きである。各病室とも床の間・押入れおよび暖房・電鈴を備える。さらに1階手術室の上にあたる場所に、10畳と6畳の二間で構成される病室が2個ある。10畳にはリノリウムを敷き寝台を備え、6畳には畳を敷いてある。この病室の前の廊下には昇降機があって、手術室に通じる。便所および浴室の位置は階下と変わらない。
 そしてこの2階に蒸気乾燥室がある。鉄管で蒸気と乾燥した空気とを送って、洗濯物を乾燥させる場所である。その他看護婦教室・看護婦総取締室および湯沸所がある。

◆3階◆
 病室その他の配置は2階と同じだが、ここに大貯水槽・浴湯池および蒸気吸入室を設ける。

◆天心閣◆
 3階からさらに登って、倉庫・談話室等を経て天心閣に入ることができる。六角形の高塔で、ガラス窓を開くとその外部は回廊となっており、鉄の手すりを設ける。ひとたびここに上って四方を指させば、浪華のすべては足下に集まり、遠山近海みな一望のもとにある。
 閣に「天心」の二字を題するのは、頼山陽の浪華橋納涼の佳句、
   万人声裡夜如何 月到天心露気多
   豪竹哀糸船櫛比 一江起処着金波
から取ったもので、その扁額は院主の姉婿・持永適庵(※持永秀貫)居士の筆による。
 天心閣は地盤から仰ぎ見て50尺7寸(※約19.3m)の高さにそびえ立っている。そこに登って眺めわたした際の心地よさは、推して知るべし。

◆上水◆
 飲料には大阪市の上水を全院に導き入れ、それぞれ各所で用途を区別できるよう、雑用水は淀川(※堂島川)の川水を3階に設けてある貯水槽に蒸気ポンプで導き、ろ過のあと鉄管でこれを上水管と並行して各階各所に送って、炊事・風呂その他の雑用に利用する。

◆下水◆
 普通の下水はすべて樋で前方および後方の街道上にある大下水道に流す。しかし地下室内の下水は蒸気ポンプで前方下水道に導き、手術室で生じた下水および伝染物質を含んだ下水は、煙突の下に設けてある焼却所でいったん煮沸消毒した後、普通下水道に棄てる。

◆消毒◆
 伝染の疑いのある患者に用いた畳・寝具類は、これらを地下室に備え付けた消毒かごにひとつひとつ入れ、すべて熱気消毒を行う。また手術室には完全な消毒装置を備え付け、治療器械・包帯材料等すべて消毒し、そばに滅菌水を作って手洗いその他手術部の洗浄に用いる等、いっさいの設備の防腐処置は明らかである。

◆設備上の特色◆
 本院の設備上の特色とするところは、地下に蒸気機関室を設けて2基の蒸気機関を据え付け、火力を要するものはこれら蒸気の力を借りる。各室の蒸気暖房は温度が常に一定で、厳冬の骨を削るような寒さの時も、陽春桜花のうるわしい季節のように和気あいあいと感じられる。また台所における飲食物の煮炊きをはじめ湯や茶の煮沸、薬局における薬剤の浸煎、手術室における包帯材料および器械類の消毒、その他浴場や洗い場等にいたるまで、ひとつとして蒸気の力を用いないものはない。
 また別に電機室を設けここに発電機を据え付けて、あかりは全て自家用電灯とし、真夏のころには扇風機を用いて絶えず涼風を送り、金属を融かすほどの厳しい暑さもたちまちに忘れさせる。


以上『大阪回生病院沿革史』より。
なお、本文カッコ内※印はryugamori註。

大阪回生病院設立由来 (大阪回生病院沿革史より)

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院主 菊池篤忠 (国立国会図書館デジタルコレクションより)

 

 私は弘化2年[1845年]9月25日、肥前国小城町[現在の佐賀県小城市]旧小城藩[佐賀藩支藩]藩医の家に生まれた。本藩[佐賀藩]藩主・鍋島閑叟[鍋島直正]公は、従来の漢方医学を廃止し、全国に先駆けて西洋医学の学校を設立した。これが我が国医学史上、特筆すべき佐賀好生館である。私は17歳の時この学校へ入学し、オランダの書物で学ぶこと7年、医学全科を卒業した。

 しかしながら、当時医学校の過程は書籍上の研究をもっぱらとし、臨床上の研究はまったく欠けていた。それゆえ私は広く日本中に名医を求めて実地診療を研究したいと望んでいたが、老いた父母が家にあり、遠方で遊学するに忍びなく実現できずにいたところ[※1]、たまたま小城藩主・鍋島欽八郎の命令で京都に呼び寄せられた。この時副医として随行を命じられ、初めて郷里を出た。時に明治2年[1872年]1月、私は25歳であった。

 京都滞在中、研究したいという思いがいよいよ沸き起こり、抑えることができなくなった。ここでさらに東京遊学を願い出て、同年3月許され東京に到着し、当時日本唯一の医科大学(東校)[※2]へと入学した。
 同年秋[11月]、大阪に第四大学区医学校[※3]が設立され、オランダ人医師ボードウィンを教師として招聘した。この時私はオランダ医学生であったために同校へ転校を命じられ、校舎長となりついで病院勤務を兼ねたのち医局長となった。これが私の大阪在住のはじめである。
 ボードウィン及び後任のエルメレンスと親しく接して感化を受けつつ在阪すること3年、さらに帰京を命じられ、再び大学東校でドイツ人医師ミュルレル付として病院に勤務すること1年あまり、明治6年[1873年]春その職を辞し、置賜県病院長として招聘され羽前国米沢[現在の山形県米沢市]へ赴任した。

 滞在すること1年、ちょうどその頃郷里で佐賀の乱が勃発したことを聞き、憂慮に堪えず思い切って辞職し大阪まで到着した時、戦乱はすでに平定されていた。それでこの地に留まり、旧小城藩蔵屋敷と最も関係の深かった堂島の米商・備中豊造氏の熱心な頼みと斡旋によって、北区堂島船大工町[現在の大阪市北区堂島1丁目付近]に開業した。この時明治7年[1874年]であった。
 ところが兵乱の傷病者が続々とやって来て大阪陸軍臨時病院[※4]に収容されるのを傍観するに忍びなく、発奮して陸軍へと出仕した。これが軍に官職を得た最初である。それ以来、在官中大阪で勤務すること前後4回に及び、親しい友人もますます増えて、私にとって大阪の地は実に第二の故郷となるに至った。

 さて、今や藩制はすでに廃止され、郷里の父母もまた亡くなっていた。それゆえいつか機会を得れば、この地に病院を設立することで自分の天職をまっとうしたいという思いが年々強くなった。そもそも陸軍は定年まで決められた期間がある。しかしその期限を待たず在職25年を機に席を後進へ譲ることで、かねてからの望みを果たしたいと考えていたところ、明治31年[1898年]春、熊本在勤中軍医監に昇進し、第四師団(大阪)軍医部長に転任を仰せつけられた。まさに在職25年目[※5]で転任してやって来た地は、宿望の大阪であった。
 これは天の意志が私の志を後押ししているに違いない。よって同年10月、意を決して辞表を提出し、休職を仰せつけられたことをもって、ただちに病院設立の準備へと着手した。幸いにも実弟・菊池常三郎が私の後任としてこの地へ赴任して来たことは、まさに万の援軍を得たかのような思いであった。

 ここにおいて、かつて堂島に開業した時以来親交のある濱崎永三郎・加賀市太郎・北村利助・齋藤嘉七右衛門の4名に評議員を依頼し、協議の結果、既成の建物を買収して速やかに開業することに決定した。これを物色したところ、当時先輩が設立に関わった病院で、すでに廃業したものに高橋病院があった。また売家として北に大阪ホテル、南に今宮商業倶楽部があった。いずれも開業するのに好都合な建物だったので、買収に着手しさまざまに交渉したものの、どれも差し障りがあって、とうとう上手く調わないまま終わってしまった。とりわけ高橋病院や大阪ホテルなどは、当事者との話し合いもほとんどまとまって、まさに登記する運びとなったその直前、予想外の差し障りのために中止せざるを得ない状況となり、遺憾はなはだしくも致し方なかった。

 事ここに至っては、むしろこの際条件に合う土地を購入し、建物を新築するに越したことはない。かくなる上は、病院として大阪で最も優れた場所を選定する必要があるという話になり、その第一候補としてあがったのは、本院現在の地である北区絹笠町[現在の北区西天満2丁目]・旧小城藩邸[蔵屋敷]跡であった。しかしこの土地は今や旧小城藩の所有ではない。既に人手に渡って住宅となり、ただ東隅の3分の1・絹笠町2番地には当時まだ米蔵を残しており、豪商・芝川又右衛門氏の所有であった。

 私はこの3分の1のみでは面積が狭いと感じたが、評議員の1人である北村翁曰く「先生、まずはここで始めなさい。藩邸跡すべての区画を占有するに至るまで、心に誓って待たれよ。」とのことだった。協議はこれに決定し、濱崎氏が芝川氏と親しかったので、進んで交渉役に当たられた。すると芝川氏曰く「病院は公共の事業であるから、とりわけ周囲の景観を選ぶ必要があるが、米蔵などは少しもその必要がない。他に移転させることもできる。」とすぐに快諾されて、話し合いは容易にまとまった。これはまったく濱崎氏の仲介と芝川氏の好意とが無ければ、成し得なかったことである。

 この米蔵の土地は、南に淀川[※6]を隔てて中之島公園に面し、風景の最も良い場所である。加えてここにあった旧小城藩蔵屋敷は、私が働き盛りの頃に数度出入りし生活していたというゆかりがあった。夢にも忘れがたい場所であり、まるで第二の故郷で第一の故郷を見るがごとく感じる場所である。図らずもここに長年の望みである病院を設立することができるとは、大変な喜びで大いに勇気が奮い立った。


 よって直ちに建築の設計へと着手した。当時の師団監督部長・中村宗則氏が、好意で同部建築技師・芳賀靜雄氏にこれを手伝わせたことで、芳賀氏および一等薬剤官・小川良知氏に依頼して図案を制作し、着々と工事を進めた。小川氏は建築を趣味としている人で、病院薬局長として招聘したが、当初はもっぱら建築を監督していた。建築請負棟梁は藤原文太郎であった。
 この建築は木造3階建で、その特色とするところは、地下室を設けて蒸気機関2台を据え付け、院内はすべて火気を廃し、蒸気のみを使用したことにある。明治32年[1899年]6月起工、翌33年[1900年]7月竣工。その月の25日、天神祭の吉日を選んで開院した。我が家の屋号・回生堂にちなんで回生病院と命名し「一視同仁 博愛慈善」を院是とした。

 以来病院の勢いは日に日に発展し、2度火災の災難に遭うもただちに最新設計で再築され、今日に至るまでの職員諸氏の奮闘と社会の同情とにより、その基礎はますます強固さを増した。開院当初は私一人で諸科を担当し、実弟が公務の余暇にこれを補佐していたが、翌年彼が陸軍を辞職してやって来て、外科を専門に担当することとなった。その後社会および医学の進歩とともにさらに分科を増やし、今や既に8科を数えるに至った。各科専門熟練の人物がこれらを管理し、院是をまっとうしている。

 また建築の規模は病院の発展に応じ、当初旧小城藩邸跡の一角にあったものが、今や北村翁の言葉のようにその全部を占めるに至ったことは、老後の喜ばしき思いこれに勝るものはない。よって往時を振り返り、本院設立の由来を述べるのである。

     大正13年[1924年]6月
     創立者 菊池篤忠

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※1 父母在,不遠遊,遊必有方。 (論語 里仁第四)
※2 明治2年当時の名称は「医学校」
※3 明治2年当時の名称は「大阪府医学校」
※4 西南戦争の傷病者を受け入れるため、明治10年(西暦1877年)に現在の大阪市中央区法円坂付近に設置された。なお明治11年(西暦1878年)『大阪陸軍臨時病院報告摘要』に、大阪陸軍臨時病院付・二等軍医正として菊池篤忠の名前がある。
※5 『60年史』によると陸軍出仕は明治7年なので、24年と言うべきところか。
※6 堂島川のこと。明治40年に現在の淀川である淀川放水路が開削されるまでは、淀川本流の一部であった。

ブログについて

 はじめまして。このブログは近代大阪に存在した建物の話題を中心に扱っております。至らぬ点も多々あるかと思いますが、かつて存在した素敵な建物について、少しでも知っていただくきっかけとなりましたら幸いです。記事中の現代語訳の方針は、以下の通りです。


・文章の意味が変わらないよう注意を払いつつ、読みやすくするために語を適宜追加・削除・入れ換えをする。
・適宜句読点をつけ、長い文は複数に分ける。また改行・段落分けをする。
・旧地名や元号は、カッコ内に現在の地名や西暦を書く。
・外国人の名前は、現在一般的と思われる表記に改める。