大阪回生病院設立由来 (大阪回生病院沿革史より)

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院主 菊池篤忠 (国立国会図書館デジタルコレクションより)

 

 私は弘化2年[1845年]9月25日、肥前国小城町[現在の佐賀県小城市]旧小城藩[佐賀藩支藩]藩医の家に生まれた。本藩[佐賀藩]藩主・鍋島閑叟[鍋島直正]公は、従来の漢方医学を廃止し、全国に先駆けて西洋医学の学校を設立した。これが我が国医学史上、特筆すべき佐賀好生館である。私は17歳の時この学校へ入学し、オランダの書物で学ぶこと7年、医学全科を卒業した。

 しかしながら、当時医学校の過程は書籍上の研究をもっぱらとし、臨床上の研究はまったく欠けていた。それゆえ私は広く日本中に名医を求めて実地診療を研究したいと望んでいたが、老いた父母が家にあり、遠方で遊学するに忍びなく実現できずにいたところ[※1]、たまたま小城藩主・鍋島欽八郎の命令で京都に呼び寄せられた。この時副医として随行を命じられ、初めて郷里を出た。時に明治2年[1872年]1月、私は25歳であった。

 京都滞在中、研究したいという思いがいよいよ沸き起こり、抑えることができなくなった。ここでさらに東京遊学を願い出て、同年3月許され東京に到着し、当時日本唯一の医科大学(東校)[※2]へと入学した。
 同年秋[11月]、大阪に第四大学区医学校[※3]が設立され、オランダ人医師ボードウィンを教師として招聘した。この時私はオランダ医学生であったために同校へ転校を命じられ、校舎長となりついで病院勤務を兼ねたのち医局長となった。これが私の大阪在住のはじめである。
 ボードウィン及び後任のエルメレンスと親しく接して感化を受けつつ在阪すること3年、さらに帰京を命じられ、再び大学東校でドイツ人医師ミュルレル付として病院に勤務すること1年あまり、明治6年[1873年]春その職を辞し、置賜県病院長として招聘され羽前国米沢[現在の山形県米沢市]へ赴任した。

 滞在すること1年、ちょうどその頃郷里で佐賀の乱が勃発したことを聞き、憂慮に堪えず思い切って辞職し大阪まで到着した時、戦乱はすでに平定されていた。それでこの地に留まり、旧小城藩蔵屋敷と最も関係の深かった堂島の米商・備中豊造氏の熱心な頼みと斡旋によって、北区堂島船大工町[現在の大阪市北区堂島1丁目付近]に開業した。この時明治7年[1874年]であった。
 ところが兵乱の傷病者が続々とやって来て大阪陸軍臨時病院[※4]に収容されるのを傍観するに忍びなく、発奮して陸軍へと出仕した。これが軍に官職を得た最初である。それ以来、在官中大阪で勤務すること前後4回に及び、親しい友人もますます増えて、私にとって大阪の地は実に第二の故郷となるに至った。

 さて、今や藩制はすでに廃止され、郷里の父母もまた亡くなっていた。それゆえいつか機会を得れば、この地に病院を設立することで自分の天職をまっとうしたいという思いが年々強くなった。そもそも陸軍は定年まで決められた期間がある。しかしその期限を待たず在職25年を機に席を後進へ譲ることで、かねてからの望みを果たしたいと考えていたところ、明治31年[1898年]春、熊本在勤中軍医監に昇進し、第四師団(大阪)軍医部長に転任を仰せつけられた。まさに在職25年目[※5]で転任してやって来た地は、宿望の大阪であった。
 これは天の意志が私の志を後押ししているに違いない。よって同年10月、意を決して辞表を提出し、休職を仰せつけられたことをもって、ただちに病院設立の準備へと着手した。幸いにも実弟・菊池常三郎が私の後任としてこの地へ赴任して来たことは、まさに万の援軍を得たかのような思いであった。

 ここにおいて、かつて堂島に開業した時以来親交のある濱崎永三郎・加賀市太郎・北村利助・齋藤嘉七右衛門の4名に評議員を依頼し、協議の結果、既成の建物を買収して速やかに開業することに決定した。これを物色したところ、当時先輩が設立に関わった病院で、すでに廃業したものに高橋病院があった。また売家として北に大阪ホテル、南に今宮商業倶楽部があった。いずれも開業するのに好都合な建物だったので、買収に着手しさまざまに交渉したものの、どれも差し障りがあって、とうとう上手く調わないまま終わってしまった。とりわけ高橋病院や大阪ホテルなどは、当事者との話し合いもほとんどまとまって、まさに登記する運びとなったその直前、予想外の差し障りのために中止せざるを得ない状況となり、遺憾はなはだしくも致し方なかった。

 事ここに至っては、むしろこの際条件に合う土地を購入し、建物を新築するに越したことはない。かくなる上は、病院として大阪で最も優れた場所を選定する必要があるという話になり、その第一候補としてあがったのは、本院現在の地である北区絹笠町[現在の北区西天満2丁目]・旧小城藩邸[蔵屋敷]跡であった。しかしこの土地は今や旧小城藩の所有ではない。既に人手に渡って住宅となり、ただ東隅の3分の1・絹笠町2番地には当時まだ米蔵を残しており、豪商・芝川又右衛門氏の所有であった。

 私はこの3分の1のみでは面積が狭いと感じたが、評議員の1人である北村翁曰く「先生、まずはここで始めなさい。藩邸跡すべての区画を占有するに至るまで、心に誓って待たれよ。」とのことだった。協議はこれに決定し、濱崎氏が芝川氏と親しかったので、進んで交渉役に当たられた。すると芝川氏曰く「病院は公共の事業であるから、とりわけ周囲の景観を選ぶ必要があるが、米蔵などは少しもその必要がない。他に移転させることもできる。」とすぐに快諾されて、話し合いは容易にまとまった。これはまったく濱崎氏の仲介と芝川氏の好意とが無ければ、成し得なかったことである。

 この米蔵の土地は、南に淀川[※6]を隔てて中之島公園に面し、風景の最も良い場所である。加えてここにあった旧小城藩蔵屋敷は、私が働き盛りの頃に数度出入りし生活していたというゆかりがあった。夢にも忘れがたい場所であり、まるで第二の故郷で第一の故郷を見るがごとく感じる場所である。図らずもここに長年の望みである病院を設立することができるとは、大変な喜びで大いに勇気が奮い立った。


 よって直ちに建築の設計へと着手した。当時の師団監督部長・中村宗則氏が、好意で同部建築技師・芳賀靜雄氏にこれを手伝わせたことで、芳賀氏および一等薬剤官・小川良知氏に依頼して図案を制作し、着々と工事を進めた。小川氏は建築を趣味としている人で、病院薬局長として招聘したが、当初はもっぱら建築を監督していた。建築請負棟梁は藤原文太郎であった。
 この建築は木造3階建で、その特色とするところは、地下室を設けて蒸気機関2台を据え付け、院内はすべて火気を廃し、蒸気のみを使用したことにある。明治32年[1899年]6月起工、翌33年[1900年]7月竣工。その月の25日、天神祭の吉日を選んで開院した。我が家の屋号・回生堂にちなんで回生病院と命名し「一視同仁 博愛慈善」を院是とした。

 以来病院の勢いは日に日に発展し、2度火災の災難に遭うもただちに最新設計で再築され、今日に至るまでの職員諸氏の奮闘と社会の同情とにより、その基礎はますます強固さを増した。開院当初は私一人で諸科を担当し、実弟が公務の余暇にこれを補佐していたが、翌年彼が陸軍を辞職してやって来て、外科を専門に担当することとなった。その後社会および医学の進歩とともにさらに分科を増やし、今や既に8科を数えるに至った。各科専門熟練の人物がこれらを管理し、院是をまっとうしている。

 また建築の規模は病院の発展に応じ、当初旧小城藩邸跡の一角にあったものが、今や北村翁の言葉のようにその全部を占めるに至ったことは、老後の喜ばしき思いこれに勝るものはない。よって往時を振り返り、本院設立の由来を述べるのである。

     大正13年[1924年]6月
     創立者 菊池篤忠

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※1 父母在,不遠遊,遊必有方。 (論語 里仁第四)
※2 明治2年当時の名称は「医学校」
※3 明治2年当時の名称は「大阪府医学校」
※4 西南戦争の傷病者を受け入れるため、明治10年(西暦1877年)に現在の大阪市中央区法円坂付近に設置された。なお明治11年(西暦1878年)『大阪陸軍臨時病院報告摘要』に、大阪陸軍臨時病院付・二等軍医正として菊池篤忠の名前がある。
※5 『60年史』によると陸軍出仕は明治7年なので、24年と言うべきところか。
※6 堂島川のこと。明治40年に現在の淀川である淀川放水路が開削されるまでは、淀川本流の一部であった。